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戦争遺児たちのフィリピン墓参とその後


                            H29.03.21

 戦争遺児たちのフィリピン墓参とその後

  千葉県東金市にお住まいのつばさ会会員 石田 勝治 氏より、「戦争遺児の墓参体験談」をご投稿いただきましたので、ご紹介致します。
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 私は、平成17年3月、仕事も定年になり、顔も見ないで戦死している親父の事が気になり日本遺族会関連をネット検索し、会員になれるという事で、会員となり、日本遺族会新聞を購読するようになった。そこには、フィリピン墓参団云々の記事が載っており、平成17年の11月17日〜11月23日、墓参の参加者募集が書かれていた。さっそく千葉県遺族会を通じて応募してみた。

 そして、抽選で選ばれ、11月17日午後から、3.11地震で壊れる前の九段会館へと全国から参加者が集まり、フィリピン慰霊友好親善訪問団が結成された。主催は財団法人 日本遺族会である。靖国神社へ昇殿参拝し、当日は九段会館へ宿泊した。
1泊目の九段会館では、B班となり、各人が自己紹介し、熊本・長崎・福岡・奈良・三重・石川・富山・山梨・東京・千葉・宮城・山形県などの男女22名(男女半々位)が参加した。

 引率団長以下総数110名をA班からE班まで分け、それぞれの父親が戦死された方面別に組織されて、我が親父はルソン島クラークで戦死(マニラ〜コレヒドール島スービッククラーク〜マニラ)等と、慰霊追悼を行った。皆さんは、涙ながらに、60有余年の生きざまを2〜3分に要約した手紙で天国の父上に訴えていた。私のように、母親と4歳で離別(母再婚のため)祖父母伯父に15歳まで育てられる人は、いなかった。

 11月22日の最後の宴会の夜、我がB班22名の仲間たちは、日本全国から集まり、父親たちが太平洋戦争で戦死したという、共通の哀しみのもとに出会えたものの「明日からは、これでもう会えなくなっちゃうね」と話題が出た。そして、誰彼からとなく、「各出身県持ち回り幹事で、年1回出身県の観光旅行しようよ」と言い出し、すでに、あれから11年を過ぎて、それぞれの各県観光地を毎年回ってきた。今回は、東北大震災(3.11)の復興を見る観光で、5月末ころ、行くことになり、宮城県女性幹事の補助のため、私が副幹事となったのである。

 B班の三重県の女性団長も、日本遺族会の理事で、毎年行われる様々な東南アジア諸国への慰霊訪問団の班の団長を依頼されて行かれるが、聞くところでは、班の旅行も2〜3年で、とん挫するとかであったが、我がB班は、「何故か16名前後で長く続いているね」と感心しているとのことであった。時々は、遺族会役員で忙しいにもかかわらず、団長も三重県勢3人で参加して来られます。また、日本遺族会というよりも厚生省は、戦時中の混乱の中でも、各兵士たちの戦死場所まで、記録資料から克明に把握していたものだと感心した次第です。

★ このB班旅行で、印象深いのは、やはり、鹿児島県の知覧特攻隊会館での「三角兵舎」が記憶に残ります。若い特攻隊員たちが、この三角兵舎の中で短い人生の最後の想い出を仲間たちと涙ながらに、語り合う切ない光景、国のため使命感を持って任務を遂行とは、今の若者たちに見せてあげたい、知覧特攻隊会館ですね。道路端の灯篭は単なる灯篭ではなく、1300人位の兵士の顔が描かれているとかでした。

★★靖国神社での遊就館を見学すると、人類は戦の歴史だと感じ、その戦を防ぐには、日ごろの防衛力が如何に大事であるかと読み取れます。我が戦争遺児の仲間で、左翼思想の人は、まったくいませんでした。 むしろ、近隣諸国の勝手放題な行動に義憤を感じている人が多いです。数年前に我が女性団長と会ったときには、防大出身(自衛隊定年)の遺族会員も慰問団に近年参加したとかでした。フィリピンでの日本軍戦死者は、52万有余人とかでした。よって、日本遺族会でもフィリピンへの墓参だけは、何時も100人以上が参加していますが、遺児の高齢化で5年過ぎた者は再度参加できるとかでしたが、二回目は、行く気にはなれませんです。
             (千葉県東金市 石田 勝治)


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