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死生観ノート


                           26.04.21
                          

 「あなたの“死にがい”は何ですか?−死生観ノート」(5)


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5 死と死生観

 前回、人間とその避けることのできない死の関係を考えたが、現実として人間の死と死生観はどのように結び付くのだろうか。人間が避けることのできない死の意味を問うことは、実は、いかに生きるべきかという問いと表裏一体をなしている。死が、まだ自分の近くに来ていないことに安んじて、死から眼をそらし、死から逃避することもできるが、それは、同時に、死があらゆる瞬間に起こりうるということに他ならない。
 死を自覚すればするほど、人間は生の意味を考えねばならず、本来の生きる目的を問いなおすことになる。すなわち、生と死とを意味付けようと試みることによって、死に意味を与え、生に充実した内容をもたせるのである。
 たしかに死生観は生者の間の考え方であり、死んだらどうなるか、死後の世界があるとしたら、そこで苦しいめに合わずに済みたい、そのためにはどうしたらよいか、すなわちどのように生きたら死後生きていた時代より幸福がもたらされるのか、死なないためにはどうしたらよいのかということを生きている者が考えたものなのである。

 その一つが前項で触れた祖先を崇拝することが巡り巡って自分の死後、子孫達に守られることになるという心情である。このようにみれば死生観というものは、死ぬまでの間、いかに人世を生きてゆくべきかという人生観の一つの見方といえよう。このいかに生きるべきかの到達点が、どのような形で死を迎えるべきか、すなわち人間は、いかに死すべきかということになる。言い換えれば、“死にがい”を追究することなのである。

 では一般論としての死生観はどのような考え方からなるのであろうか。
 死を越えて永遠に生き続けたいという人間の切なる願いから、死生観は、死の問題を人世の流れを含んだ時間的なものとして解決しようとする形態で表現された。

○ 最も一般的なものは、現実の肉体的生命が永続することを願う形態である。その代表が不老長寿の仙薬を求める中国の神仙思想である。エジプトのミイラ保存の思想や、キリスト教の最後の審判の日に墓からよみがえって永遠の肉体的生命を得るという終末思想にも、この形態と認めることができる。

○ もう一つの考え方は、肉体は消滅しても、霊魂は不滅であると信じる形態で、古今東西に渡って広く見出される。この形態では、仏教の西方極楽浄土や、ユダヤ教、キリスト教の天国と地獄などの他界観念が発達し、それに伴って死者の審判の思想が展開する。これとは別に、人間が様々な形で生まれかわるという再生や輪廻の思想もある。霊魂が不滅であれば、死は永遠の生に対する新しい門出であり、後生のために現世の生活を捧げるべきだという生き方も生まれ、さまざまな宗教の教理が成立し展開してきた。 

    

   ミケランジェロの『最後の審判』(システィーナ礼拝堂)

○ 三つ目は、肉体も霊魂も滅んでしまうが、それに代わるものに献身することによって、自己を不滅にしようとする形態である。「人は一代、名は末代」とか「人生は短し、されど芸術は長し」という句のように、科学、芸術、さらには、子孫、民族、人類の幸福と平和のような理想や事業に心血を注いで、それが不滅である限りは、自分も永遠であると信じた人々は、この形態の好例である。
 すなわち、現在では、シェークスピアやレオナルド・ダ・ビンチという人物に実際に会った人はいないであろうが、その残された作品から我々は彼らの名前を記憶し、その作品を通して我々の心の中に生き続けているのである。もちろん、高名なだけではなく、悪名として人々の心の中に生き続けなければならない人々もおり、そうならないよう誠実に生きる努力も行われてきた。

○ そして第四の形態として、現実の生の充実に集中することによって、生死を越えた境地を体得し、死すべき生命のうちに永遠の生命を見出すことを願う姿がある。禅の悟りの境地や、神と一体となった境地の体験はこの例である。「朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり」というような生き方は、はかなくもろい死におびやかされた人生を、そのまま強い生きがいに変える。芸道一筋の精進、血のにじむような修行、ひたすらな研究への努力をつみ重ねている人々は、まさに現実の一瞬一瞬に、自己をも現世をも忘れた三昧の境地に入っているのである。すなわち、生への執着をも含んだ現実はありのままでありながら、日常の生活の新しい意味づけがなされているのである。ただしこの境地は未熟な小生には図りがたい部分である。

 次回は、この死生観の形態をもう少し理解しやすいように分類してみたい。



                       2014.4.21

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《筆者紹介》
 大場(おおば) 一石(かずいし)
《略  歴》
 文学博士 元空将補
 1952年(昭和27年)東京都出身、都立上野高校から防衛大学校第19期。米空軍大学指揮幕僚課程卒。
 平成7年、空幕渉外班長時、膠原病発病、第一線から退き、研究職へ。大正大学大学院進学。「太平洋戦争における兵士の死生観についての研究」で文学博士号取得。
 平成26年2月、災害派遣時の隊員たちの心情をインタビューした『証言−自衛隊員たちの東日本大震災』(並木書房)出版。


               


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