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死生観ノート


                           26.08.17


 「あなたの“死にがい”は何ですか?−死生観ノート」(14)


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14 日本人の有してきた死生観(2)

(2) 日本人の死に方

 各民族の間に伝えられた死生観は、その永く培われてきた文化のなかで形成されてきた。「民族精神は一面風土的自然の中で育つとともに、他面文化的伝統の中で自己自身を形成するといってよい。」と高山岩男は言っている。一方、残された者に無視することのできない事柄として重くのしかかってきた人間の死は絶対的な事実である。とすれば、人間は死に直面した時に、それまで属してきた社会の文化の中で築いてきた自分の死生観に対して最も正直になる、全く正直とまではいかなくとも、より本当の自分をさらけ出すことになる。
 この個人的な心の動きを踏まえれば、日本人の伝統的な思想を考える場合に、日本人が死とどのように向い合い、それとのかかわりで生をどのように理解してきたかと探ることは、日本人の思想の基底に流れてきた心情を探りあてる最もよい方法であると考えられる。死という問題が、どのように日本人の間で考えられてきたかを探求することは、日本人の思想を理解する上での一つの有益な方法である。
 即ち、死という人間にとって絶対的な問題を通して生、人生の生き方を考えることが可能であるということである。死の問題は生の問題である。死が分からなければ生が分からない、あるいは、生が分からなければ死が分からないという意味では、死生観は死だけでなく生と関係の問題である。
 
 では、少なくとも死を意識したとき日本人はどのように、これに向かって考えたのであろうか。死が近づいてきたと実感したとき、ぬぐい去れない重圧と恐怖心が襲ってくるのは事実である。その大きさは個人によって異なるだろうし、現実社会への去り難さや未完成の人生の作品への心残りなどに因っても左右されるだろう。
 一つの場面は、年齢を重ね避けようのない死が徐々に自分のものとして感じられてきた時である。死に近づきつつある老人達は、自分の一生を懐かしい思いで回顧し、自己審判を行う。彼等は、自分の一生を検討し、最後の最後で、自分の一生は何かに役立っていただろうか、後に残る人々は、自分をなんらかの形で記憶していてくれるだろうか、と振り返るかも知れない。もしそれが僅かでも確信できれば、幸福な死への接近といえるだろう。自分が今死んでも、自分の家族の中に、あるいは自分の仕事の中に、自分に対する記憶が生き続けるだろうかという不安と疑問が、どこまで心の内に確信できるかで、死を受け入れる能力は大きくなる。受け入れることができれば、死の不安は少しずつ軽減され、そのため自分の死を、残された人々がどう考えてくれるかが明確になればなるほど、人は安心して死んで行くことができる。
 死を意識した人々にとって、どのような一生を送ってきたかということは死を迎える、すなわち生を終了する際に、強く意識される問題である。自分の一生は少しは意義があっただろうか、堕落はなかっただろうか、何らかの倫理的意味が、自分の一生にあっただろうかと、すべての人は問題にするであろう。この問題に望ましい解答が得られれば、それが望ましいものであればあるほど、死ぬことへのためらいは少なくなるのである。
 
(参) 「特攻隊員の遺した遺書」から
「父さん、大事な父さん 母さん、大事な母さん 永い間、色々とお世話になりました。」
 神風特別攻撃隊第三草薙隊 永尾 博中尉
 


 「会いたい、話したい、無性に。」
 陸軍特別攻撃隊 第20振武隊 穴沢利夫少尉(中央大学)
 


 「咲くもよし 散るも又よし 桜花」
第二神風特別攻撃隊義烈隊 松尾勲一等飛行兵曹
 


 前述したように、日本人にとって死という事象は、必ずしも医学的な死の判定によるものではなく、その後に死者の霊魂があの世に旅立って、肉体は朽ち果てようとも別の世界から生者に影響を与え続けるというものである。この際、霊魂が生者に影響を及ぼすのは、残った者達が死者の記憶を何らかの形でもっている場合に限られ、現世の全ての人々が死者の記憶を失った後は、霊魂は、「宇宙」のなかへ入って行き、そこにしばらく留まり、次第に融けながら消えてゆくというものである。このため、日本人は死に臨んで、残された人々に、より美しく、より清く記憶にとどめて貰えるよう死に方を整えるのである。少なくとも、後ろ指を指されたり、属する社会に迷惑を掛けるような死に方は自分自身に対しても許されなかった。

 また、「村八分」では、その家と村人が一切交流を憚る状況にあっても、例外の二分の火事と葬儀は行き来をしたと言われる。村人の死は、個人の問題ではなく、周囲の社会全般に影響する出来事だった。そのため、死にあたっては、家族に迷惑のかからぬよう社会に迷惑のかからぬような死に方が望まれたのである。

 結局、日本人にとって、どのように死に向かうことが、正しい(あるいは、美しい、心残りにならない等々)姿と考えられたのだろうか。突き詰めていくと「残された人々に、より美しく、より清く記憶にとどめて貰えるような死に方」が、望まれたのである。それが、どのような姿なのかは、その時々の日本の社会が判断してきたことが見えてくる。

 次回は、日本人の有してきた死生観の(3)として、日本人の死と、それを取り巻く社会についてもう少し考える。


                       2014.8.16

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《筆者紹介》
 大場(おおば) 一石(かずいし)
《略  歴》
 文学博士 元空将補
 1952年(昭和27年)東京都出身、都立上野高校から防衛大学校第19期。米空軍大学指揮幕僚課程卒。
 平成7年、空幕渉外班長時、膠原病発病、第一線から退き、研究職へ。大正大学大学院進学。「太平洋戦争における兵士の死生観についての研究」で文学博士号取得。
 平成26年2月、災害派遣時の隊員たちの心情をインタビューした『証言−自衛隊員たちの東日本大震災』(並木書房)出版。


               


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