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死生観ノート


                          2015.1.24


 「あなたの“死にがい”は何ですか?-死生観ノート」(25)


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25 武士道を通しての兵士の精神教育(2)

(2) 武士の死生観と覚悟

ア 本来の武士と死についての考え方

 日本人にとって死とは、ただ単に個人がこの世から消え去るのみでなく、その属した社会との関係で、いかに「よい死に方」をするかが決定的であった。その死に方によっては、残された家族の記憶に、美しく清く立派に死んだ誰々と残るか、あるいは無様な死に方をした誰々と残るか、死者が生者の記憶とともに生き続けるとしたら、それは極めて重要な死に対する決定要因であった。
 死が生の裏返しの表現だとするならば、美しく清く立派に死ぬために、いかに人生を送るかが決定要因であったと言えるのである。即ち、ひたひたとうち寄せる波のような死に対し、日本の文化の中では、死に方が強調された。死に方は決定的に重要であり、武士道では、武士には常に死ぬ心構えが必要だと力説する。理想の死は戦(いくさ)での死であり、武士はできるだけ完璧な死に到達することを中心に、その人生を構築すべきと考えられた。
 武士は何のために生きているのか。『葉隠』によれば「死ぬことと見付けたり」ということになるが、武力を以て主君を守るという本来の任務から発展し、最後まで任務を全うし、それでも累が主君に及びそうになったとき、一命をもって主君を守るということに延長して考えられた。つまり、一命をもってという最後の時に躊躇なく首を差し出すことができるという信念を持つことが武士の生きるための目的と変化していったのである。

 もう一点触れなければならないのは、日本人は武士に対して自らの死の選択を、否定するのではなく陰に陽に認めていたということである。日本の文化は、是認された打開の方法、絶対的な苦痛に満ちた袋小路の状況から身を引くための極限の形式として、自殺を認めてきた。即ち、日本の大衆感情では、「過去を水に流す」ことは一種の美徳であり、「明日を思いわずらわない」ことは称讃すべきことであった。このように、責任を負う武士の死によってある一件が落着し、翌日からはこの件について、あたかも何もなかったかのように日常生活が継続されてきたのである。この一件落着のために武士がおり、いつでも死に臨める心構えを鍛錬していたのである。
 この自らの死の選択は、極めて美化された「切腹」という名誉ある死に方として半ば儀礼化された。武士の切腹は、個人の崩壊ではなく、個人が死を把握することによって起こる自殺の典型的な場合で、その動機は、集団の秩序によって定義される「責任の遂行」であり、その結果は、集団の秩序の強化である。

 武士社会での「よい死に方」は、徳川時代を通じ、また明治以後の教育を通じて、大衆のなかに拡散された。こうして近代日本の文化のなかでは「死んでおわびをする」習慣が生じ、当事者一人が、そうしなければ解決しがたい集団の秩序を維持するために、自殺することによって、物事を解決する習慣が生じた。こうして一件に責任を持つ武士即ち当事者が腹を切ることで、それ以上責任を追及する事はできなくなり、死んだ武士は、生きて後ろ指をさされたまま一生過ごすのではなく、立派に死んだと賛美されてあの世に行くのである。
 このことは、万策尽きてやむを得ず自分が死ぬことでしか、事件の探索をうち切ることができない時、武士として躊躇せずに切腹する行為を言ったもので、進んで死を求めれば、解決が図れるかも知れないという逃避的願望を勧めるものではない。
















 長治公切腹絵図(三木城内合戦絵図より)一月十七日自刃 長治公 享年23歳
(三木合戦は、1580(天正8)年1月、城主別所長治と一族の自害と城兵の助命を条件に秀吉に降伏し、三木城が開城された。1年10ヶ月にわたる織田氏との戦いに終止符がうたれた。)














 切腹用に用意された三方にのせられ、奉書紙が巻かれた白鞘の短刀。

イ 武士の覚悟

 武士にとって「死」は人生に隣り合って存在し、いつ具現化されるかわからない現象であった。その瞬間をいつ来るか知る由もないが、いつ来ても平静さを失わずに対応できるというのが武士の存在であった。武士が問題にした死は、「人間は何時かは絶対に死ぬ」という死であるよりも、「突如として降り懸かってくる死」であった。そのような時に、狼狽えることなく毅然として死を迎えることのできる心の用意、それが死に対する覚悟である。
 このため、武士は、いかに生に対する執着から自分を解放するかという修業を積んだのである。先ほど述べた『葉隠』の内容は、この意味を含むのである。生に執着する限り、武士はすでに武士失格であるという自覚があり、さらに、生への執着を捨てる「死」においてのみ武士は武士たりうる自覚があるとした。ここには、明らかな真実な武士のあり方、この世における真実な武士の生き様が伺える。
 「武士道と云は、死ぬ事と見付けたり」とは、このような内容をいうのである。さらに、武士はこの考えを身につけているのが当然と日本人は信じていたのである。上杉謙信の『四十九年一酔の夢、一期の栄華は、一杯の酒にしかず、柳は緑にして花は紅』、織田信長の『人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなる、一度生を得て滅せぬ者のあるべきか』、豊臣秀吉の『露とおき露と消えゆくわが身かな、浪速のことは夢のまた夢』という辞世と伝えられるものにも、この意識は示されている。武士に期待される生き様あるいは死生観は、武士の側からも、また武士でない人々の側からも、それが最も正しく美しい死、すなわち生き方と信じられていたのである。











  葉隠(安政本)

 死ぬために生きていると要約される武士の死生観は、日本人に人間の死が、避けることができないと考えられたことから作り出されたとも考えられる。日本人には死を自然界における当然のこととして、受け入れる態勢があったのではないか。
 死が避けられないという考えは、一種の諦めである。死を防ぐためやたら努力したとしても、過去の権力者達が不老不死の術を発見しようとして、多大な時間と金銭と人を使っても不可能であったことを、日本人は理解していたのである。防ぐことができないのなら、それから逃げ惑うのではなく、いかに立ち向かうかの方策を生み出すことが日本人の考え方である。その切羽詰まった状態に絶えず居続けていることを要求されたのが武士なのである。かつて武士はこの覚悟を特に重視した。つまり、いざという時、いかに望まれる死を演出することができるか、その心意気をいつでも現すことができる状態が、武士にとって必須のことと要求されたのである。
 ただし、死の訪問が必ずあると解っていても、人間が死に面して何も考えない、何も思わないということはありえない。容易には測り難いが、一人一人が何かを思い何かを感じつつ死んでいったと思われる。簡単に言ってしまえば、人々が発狂することなく死んでいけたのは何故か。その発狂するほどの感情を鎮めたのが、先ほどからいう諦めでる。しかし、必ずしも、この一語で解決できるものではない。ただし、日本人の諦めと武士の覚悟の根底に流れるものに共通した認識が伺える。

 武士にとって、覚悟を身につけることはそれが本来の武士の生き方であり、自分自身がどうあれ、そうすることが異論を挟む余地のない事柄であった。覚悟は、考えて、考えて納得するものではなく、また、だからといって、何も考えずに突き進むものでもない。しかし、武士にとって、覚悟を身につけることは、完全無欠の精神状態に身を置くことではなかった。即ち、覚悟は絶対的に運命を受容するという悟りと違い、本来自分は生きていたいのだが、武士という立場上やらねばならぬことがある、ただそのために騒ぐことも泣き叫ぶことも見苦しい行いはしないという精神である。
 武士が覚悟という時、その覚悟は僧侶の悟りとは別のものである。それは、悟りが悲壮感を残さないのに対して、武士の覚悟が悲壮感を伴うことである。悲壮な悟りとは言わないが、悲壮な覚悟とは言われる。死の覚悟は最も悲壮なものである。そのため、武士の覚悟には、本人も辛いが周りの者にとっても辛い状況が含まれるのである。武士が精神的な完成者として見られるのではなく、そうなるよう努めてはいるが、やはり生身の人間であると一般に認められているからである。覚悟の悲壮性は、自分の命への拘りが残されているために悲哀があるのである。ただし、この残された拘りはただ自分に限られたものではなく、例えば妻子との別離が悲哀をもたらすのかも知れない。
 しかし、死を覚悟した者は、いずれにしても、もはや、単なる現実への執着に留まってはいない。そこには執着を越えたものがある。覚悟には、拘りを残しつつも、執着を越えたものがある。したがって悲哀をともなうといっても、それは悲哀に崩れるものではない。武士が、一般の日本人の範疇で精神を鍛える者と認識され、僧侶のように悟りを得た人間と区別されるのは、一般の日本人だからこそ、人間同士の争い事の解決に死をもって対処することができ、悟りをもった僧侶達は、既に人間同士の争い事でなく、人と神とのもめ事に携わるからである。

 覚悟を持つことは、日常生活の中の出来事で、様々な複雑に絡み合った事柄を、一瞬にして切り捨てることが必要であった。覚悟が問題になる限り、それは、何ものかを取り、何ものかを思い切ることであり、現実への全面的な執着から抜け出ることである。この覚悟の究極が全生命をかける死の覚悟なのである。武士は死の覚悟を身につけるため、それを生き甲斐として生活してきたのである。
 覚悟は、かねての覚悟と言われるように、予め心を決めておくものである。いつか起こるかも知れない不足の事態を予想して、その場になって狼狽えぬように、予め心を決めておくことである。死の覚悟も勿論同じ構造において言われるものである。死はあくまでも未来のことであるが、そのような時に、毅然として死を迎える心の用意、それが死の覚悟である。
 幕末の志吉田松陰(1830~59)は「敬は乃ち備えなり。武士道にては是を覚悟と伝ふ」(『武教全書講録』)と、覚悟は備えであると理解していたが、それは、いかなる事態、死に直面する事態に至っても至誠に生きてうろたえない心的な防波堤の確立を覚悟としたものであった。


















 吉田松陰像(山口県文書館蔵)

 さらに言えば、覚悟は空元気でもなければ片意地でもない。もちろん諦めではない。どうしたら生きられるかを求めたのではなく、死ぬことが自分の本業なのだから、たとえ思い残すことがあろうと、死ぬべき時がきたら躊躇せずに腹を切る。その事がいざとなったときに躊躇わずにできる精神を常日頃から身につけておく。その心が覚悟であって、人の意に反するこの心情を、作り上げるのが武士道であった。

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《筆者紹介》
 大場(おおば) 一石(かずいし)
《略  歴》
 文学博士 元空将補
 1952年(昭和27年)東京都出身、都立上野高校から防衛大学校第19期。米空軍大学指揮幕僚課程卒。
 平成7年、空幕渉外班長時、膠原病発病、第一線から退き、研究職へ。大正大学大学院進学。「太平洋戦争における兵士の死生観についての研究」で文学博士号取得。
 平成26年2月、災害派遣時の隊員たちの心情をインタビューした『証言-自衛隊員たちの東日本大震災』(並木書房)出版。


               


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