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今、被災者のために 3.11〜松島基地にて 


 三木会は平成24年7月20日(金)1300〜1430、グランドヒル市ケ谷において、前松島基地司令の幹部学校副校長 杉山政樹 空将補 を講師にお迎えして「今、被災者のために」と題して講演会を開催しました。
 杉山将補は自己紹介のあと、概要、以下の内容について講話されました。
1 地震の概要
2 災害復旧活動の開始
3 滑走路運用開始
4 集中大捜索
5 災害復旧における隊員達
 平成23年3月11日に起きた東日本大震災において、ご自身、松島基地において被害に遭うと共にその後の被害復旧、活動、集中大捜索等に当たった指揮官として、貴重な経験を元に講話頂きました。


 東日本大震災は、30年間に起こる確率は99%と言われていた。着任以来、地元の4つの慰霊碑を訪問する際に周辺地域の波の到達地点等の見学を通じ、過去の津波被害の大きさは承知していた。その上で、これらの災害に備えるべく、ケーススタディ、津波の対処訓練、対策等を練っていた。
 2010年のペルー沖地震では津波対処の実働訓練を実施し、12時には全機を小松に退避させた。このときの津波の高さは90cm。これで津波発生後、誰が解除を発令するか等の問題があることが分かった。この時に、隊員は隊員自身の判断により対処するとともに、ワンアクションだけとって退避することを決めていた。
 こういう状況下で3月11日を迎えた。警報発令はあったが、いつ、どのような大津波が来るかは不明だった。


 以下、主要内容のみを記述。
1 ブルーは、3月には団司令点検を受けることになっていたが、西空があの福岡空港を10分間ブロックしてくれたことから、九州に行かせることにした。
2 当時の天候は完全ビローであった。
3 ヘリは震度4でローターが地面に接するため、この状況で飛ばすことは不可能であった。
4 9mの津波の予想であったが、防潮林で波を防ぎ、それほど大きな波は来なかった。波の高さは1m程度であったが、格納庫にあたり跳ね返った波により航空機が流された。
5 ただ津波の威力は強力で、300kgあるスリーアールマットが町まで流されていた。
6 米軍からは、支援に松島基地を使いたいという調整があったが、米軍の大型機により自衛隊機の運用が制限される恐れがあったので、仙台空港の使用を勧めた。
7 松島基地に派遣された隊員は、当初何をして良いか分からないような状態だったが、環境に慣れるにつれ、自発的に災害派遣の支援を申し出、動けるようになった。
8 基地の被害復旧と町の被害復旧は、基地だけが進むことなく、リンクするように着意して実施した。
9 食事も、三千食弱の缶飯等を全部かき集めたが、被災者を支援するには不十分な数しかなく、かつ、7つの内、残った4つの野戦釜で缶飯を暖めるのも大変な状況だった。
10 官用車150台のうち、奇跡的に6台が残った。その6台をもってエプロン、ランウェイ地区の片付けを優先した。残ったF-2をエプロンに並べていたところ、そこへ海のSHがエマで着陸してきた。救難に夢中のあまり、残燃料がなくなり、一時は海上へのデッチングも考えていたとのこと。


 いやー、いいお話でした。マスコミ報道等で被害の大きさ、対策、対応の状況については承知していたつもりでしたが、行間を埋めるような貴重なお話を伺うことが出来ました。当てごととふんどしは向こうから外れるという言葉が空自にはありますが、準備をしていてもなかなかその通りには行かないもの。このほかにも興味深い内容がたくさんの講話でした。
 聞いた人だけが納得をする講演会、次回の参加をぜひともお待ちしております。 


(文・写真:n-alfa)